演目

 当社中の保有する演目は、「七座」(儀式舞)と呼ばれるものが六演目、「能舞」と呼ばれる、面をつけた劇神楽を14演目あります。

 現在舞うことのできない演目もいくつかありますが、ここではすべて紹介します。

 また、公演の際には必ず、演目開始前に演目に関する「解説」を行いますので、どなたでも演目について理解してからご覧いただけるようになっております。

代表的な演目

 当社中の代表的な演目たちです。その見どころを写真とともに紹介します。

国譲~くにゆずり~

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、豊葦原の中津国に我が子・天忍穂耳命を下して大君としようと考えられ、武見雷椎命(たけみかづちのみこと)に、副使・天鳥船命(あめのとりふねのみこと)をつけて、使わされました。二柱の神は、出雲の国・稲佐の小浜において大国主命(おおくにぬしのみこと)と会談し、談判されました。大国主命は、息子・事代主命(ことしろぬしのみこと)と相談した末、国を譲る事を決定されました。ところがもう一人の息子、武見名方神(たけみなかたのかみ)は、これを真っ向から反対し、武力を持ってしても豊葦原の国を守ろうとされ、武見雷椎命と力比べをされましたが、さすがに天津神には叶いがたく、遂に信州諏訪湖のほとりにて降伏されました。そして武見名方神は、父や兄の仰せの如く、豊葦原を譲る決意をされ、諏訪大明神としてこの地に鎮まられました。

 餅まきや、武見雷椎・武見名方の力比べのシーンなど、楽しめる要素が多分に盛り込まれている、「簸乃川大蛇退治」に次いで、出雲神楽の代表的な演目です。(写真:大門誠弥様提供)

簸乃川大蛇退治~ひのかわおろちたいじ~

 乱暴を働いた罪で高天原を追放された須佐之男命(すさのおのみこと)が出雲の国の簸の川(現在の斐伊川)の上流に天下ると、美しい姫を連れて嘆き悲しむ老夫婦に出会われました。その老夫婦の名は足名槌、手名槌といい、「川上に八俣大蛇(やまたのおろち)という大蛇が住み、毎年出で来ては人を取り呑む。自分にはもともと八人の娘がいたが、七年に七人大蛇に取られ、今年またこの奇稲田姫(くしいなたひめ)まで取られてしまう。」と語り、憐れに思った命は大蛇退治を引き受けられます。

 命は八塩折の酒という強い毒の酒を造り、大蛇が出てくるのを待たれ、やがて大蛇が現れてその酒を飲み、酔いつぶれたところを自らの十握の剣を以てずたずたに退治されました。すると、大蛇の尾先より一振りの剣が出顕し、命はこの剣を「天の叢雲の剣」と名付け天照大御神にささげられました。そして須我の地(現在の雲南市大東町須賀)に宮づくりをされ、「八雲立つ出雲八重垣妻籠めに 八重垣造るその八重垣を」との和歌を詠まれ、奇稲田姫とともに末永く幸せにお暮しになります。

 出雲神楽において最も代表的な演目です。(写真:大門 誠弥様提供)

香具山~かぐやま~

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)が御弟神の須佐之男命(すさのおのみこと)の悪行により天岩戸(あめのいわと)にお隠れになり、この世は暗黒の世界となりました。八百万の神々は相談され、岩戸の前で神楽を奏し、大御心を和らげ、以て岩戸を開こうと計らいました。

 神楽に必要な榊を取りに、天児屋根命(あめのこやねのみこと)が天の香具山に向かわれますが、あいにく山の主・大山津見神(おおやまづみのかみ)が不在であり、無断で榊を根こじにして持ち帰ってしまいます。

 お帰りになった大山津見神は怒り、児屋根命を追いかけて榊を取り返しますが、事の訳を聞かれた大山津見神は、岩戸の神楽の為ならばと、榊をお譲りになりました。児屋根命は感謝され、代わりに十握剣(とつかのつるぎ)をお渡しになりました。

 大山津見神はその剣で東西南北・中央・黄竜を舞い固める「悪切」を舞われます。この悪切は、もっぱら禍を払い除くものとして尊ばれています。(写真提供:Jun Matsumoto様)

茅の輪~ちのわ~

 須佐之男命が旅をされていると、備後の辺りまで着いたとき暴風雨に襲われ、その村の主・巨旦将来(こたんしょうらい)という大富豪に一夜の宿を求められました。しかし巨旦将来は、「旅の者に貸す宿などない」と一言にして断られました。次に貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)に宿をもとめたところ、「藁の筵に粟の飯なれど、これに構わないのならばどうぞ宿り下さい」と、暖かくおもてなしになりました。次の日、嵐も晴れて出立の時、命は蘇民将来に自らが持っていた「茅の輪」(ちのわ)を与えられ、これを家の門口に掲げ、「蘇民将来の子孫なり」と言えば、如何なる禍も必ず退散するであろう」と仰せになって去って行かれました。やがて、禍津日神(まがつひのかみ)という疫病の神の司る疫病が流行り、巨旦将来はこの疫病によって滅びましたが、蘇民将来は茅の輪によってこれを免れ、子孫末代まで栄えたという神楽です。

 客席乱入、舞台からの飛び降りなど、台本にないハプニングも多い、大変にぎやかな神楽であり、多くの人に人気の高い演目です。

国造~くにづくり~

 大国主命は、若い頃「葦原色許命」(あしはらしこおのみこと)と御名乗りで、いつも兄・八十神(やそがみ)達からの酷い虐めにあっておられ、これを憂えた母親神の教えで、根の国の須佐之男命の元へゆかれました。命はそこで須佐之男命の娘・須勢理姫命(すせりひめのみこと)と恋に落ち、結ばれます。須佐之男命はまことに娘の婿にふさわしいか試してみようとなされ、さまざまな困難に合わせられますが、葦原色許命は須勢理姫命の力で目出度く是を切り抜けられました。

 やがて葦原色許命は、須佐之男命の詔を受け、須佐之男命より頂いた 生太刀・(いくたち)生弓矢(いくゆみや)・天の広矛(あめのひろほこ)・天の詔琴(あめののりごと)を以て、八十神たちを退治され、少彦名命(すくなひこなのみこと)とともに豊葦原の国を平定し、大国主命とおなりになりました。

 この演目は、当社中も含め保持する社中が二社中のみの貴重な演目です。また、この演目で八十神のかむる面は、当社中が保有する面の中でも最大級のものを使用しており、重量のある面をかむる演者の体力が試される演目でもあります。

天神記~てんじんき~

光孝(こうこう)・宇多(うだ)・醍醐(だいご)の三代の天皇に仕え、その学問の力で右大臣にまで昇進した菅原道真(すがわらのみちざね)は、時の権力者藤原氏に妬まれ、無実の罪を着せられて筑紫国(福岡県)太宰府の地に左遷され、その地でお亡くなりになりました。その後京では疫病や悪天候など不幸が続き、人はこれを道真のたたりとして畏れ、「天満宮」を建ててお祀りしたのでした。道真公の無念いかばかりかと、後の世の人々が道真が都に上って藤原時平(ふじわらのときひら)を討つ架空の様を神楽にしたのがこの演目です。

 時平、道真ともに家臣を従えますが、この家臣の動きが大変滑稽であり、全体として複雑な内容の演目であるこの「天神記」に一味加えてくれます。(写真:青山純二様)

日本武~やまとたける~

 第12代・景行天皇は、東夷征伐の詔を皇子(みこ)である日本武尊(やまとたけるのみこと)に命じられました。日本武命は、まず伊勢の国(三重県)にある度会の宮(わたらいのみや・現在の伊勢神宮)に参詣し、そこの齋宮だった伯母・倭姫命と対面し、倭姫命より「天の叢雲剣」、「火打袋」という二種(ふたくさ)の神宝(かんだから)を授けられ、これを以て東の国へと立ち向かわれました。東の国では、東夷は謀を以て八方より火を放ち尊をやき滅ぼそうとしました。すると、天の叢雲剣が自然と抜け出でて、草をなぎ払い、迎え火の術を以て、見事夷共を切り鎮められたのでした。そして日本武命は、この命を救った「天の叢雲剣」を、「草を薙ぐ」から「草薙の剣」と改名しました。

 東夷が二人登場することをはじめ、草薙の剣が活躍する場面を当社中なりの解釈で神楽の中に表しており、独自性の高い演目となっています。

その他の演目

清目~きよめ~

 これから神楽が始まるにあたり、舞座のすべてを祓い清め、神楽にふさわしいよう整える最初の儀式舞です。

 

陰陽~いんよう~

 四人の舞手が、幣・鈴・剣を採物として舞台を祓い清める演目です。

 

奉幣~ほうてい~

 神の依代(よりしろ)となる御幣を奉る舞いです。

 

茣蓙~ござ~

 舞座にしつらえた神籬(ひもろぎ)へ神々をお招きするための神楽です。

 

手草~たくさ~

 「手草」とは小さく束ねた榊のことで、これと鈴を持って舞う一人舞「真」と、「連手草」と呼ばれ二人で舞うものとがあります。

 

八ツ花~やつはな~

 「陰陽」から発展した舞いとされ、「幣の段「鈴の段」「扇の段」の三部構成となっています。四人舞で、「幣」では小幣と鈴、「鈴」では鈴と剣、「扇」では扇と剣を持って舞います。「扇の段」では四人が場所を入れ違いつつ舞う華麗な演目です。

 

五行~ごぎょう~

 東西南北を支配する神々が、一年360日を90日ずつに分配し、天下泰平の舞を舞っているところに中央の神が現れ、自らにも治めるべき日数を求めますが、四柱の神はこれを拒否し、戦いとなります。そのとき、塩筒の翁(しおづつのおさ)が現れて平等に治める日を分配し、これによって一年の四季の基が定まります。

 

切目~きりめ~

 神代の昔、天照大御神が岩戸に身を隠したとき、世の中は全くの常闇となりました。その時津の国(現在の大阪府(摂津国))の津の滝に鼓(つづみ)が降ってきました。国津神達は皆この鼓を採って鳴らそうとしましたが、誰も打つことが出来ませんでした。すると、切目命(きりめのみこと)が進み出で、「天下泰平、民豊かに」といいながら打つと音が鳴ったという故事を神楽にしたものと伝えられています。

 

恵美須~えびす~

 松江市にある美保神社の御祭神・事代主命(ことしろぬしのみこと)の神徳をたたえた神楽です。天皇が、出雲の国は恵美須の御本地と知り、大臣(だいじん)に出雲の国にある美保神社へ詣でるように命じられます。大臣は早速出雲の国は美保神社へと詣で、神の示現(じげん)を仰いでいると、御祭神・事代主命が顕れ、寿福行佑自在生(じゅふくこうゆうじざいせい)四方の衆生を守らんと、鯛釣りの舞いを舞い、御殿に消えていきます。

 

経津主~ふつぬし~

 その昔、天照大御神は、吾が御子に豊葦原の中つ国を治めさせようと考えられましたが、中つ国はそのころ魔王が治める国であり、魔王を鎮めるようにと、経津主神(ふつぬしのかみ)・武見雷椎神(たけみかづちのかみ)の二柱が天下されます。二柱と魔王は戦いとなりますが、魔王は、二柱から「国を譲るならば国津神として祀る」という条件を出されこれを了承し、国津神としてこの地に鎮まることになり、国は天つ神に譲られることとなります。

 

畝火山~うねびやま~

 神倭磐余彦命(かんやまといわれひこのみこと)が、当時都があった九州・高千穂から、日本の中央に都を定めるべく軍勢を進められ、紀伊国にさしかかったところでその土地の豪族・長拗彦(ながすねひこ)らの抵抗にあいましたが、お供に従っていた諸々の神々の武力によりこれを平定します。そして大和国・橿原の里に都を定めて長く政を執られ、自ら神武天皇とおなりになるまでを描いた演目です。

 

田村~たむら~

 第50代桓武天皇の御代、伊勢国は鈴鹿山に鬼神が立てこもり、往来の人に禍を与えるので、天皇はこれを退治せよと時の征夷大将軍 坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)に命じられました。田村麿は早速鈴鹿山に向かい、当地の里人に山の様子および鬼のことについて詳しく聞き、里人とともにめでたく鬼神・「鬼丸(おにまる)」を退治する神楽です。

 

日之御碕~ひのみさき~

 牟貢利(むくり)の国より彦春(ひこはる)という魔王が出雲の国の「北山」を奪い取らんと攻めてきました。これを日之御碕大神宮という女神様が弓矢を持って撃退されるという神楽です。